~History~
長崎の夜の代名詞、歓楽街『銅座』。
あらためてその歴史を知るといつものネオンがさらに輝いて見えるかも。
町名の由来をひもとく
「銅座」とは江戸中期以降、各地で産出された銅の精錬とその専売をおこなった役所のことをいいます。初めは大坂に設けられ、その出張所として1725(享保10)年に長崎に設けられましたが、銅座はわずか13年で廃止されました。その3年後、同じ場所に銅座銭(寛永通宝)を鋳造所が設けられていた現在の銅座観光通りで「銅座跡」の碑を見る事ができます。
「銅座の殿様」と呼ばれた永見徳太郎
銅座ゆかりの人物といえば、かつて「銅座の殿様」と呼ばれた永見徳太郎。永見家は貿易商、諸藩への大名貸し、大地主として巨万の富を築いた名家として知られています。
この永見家の6代目が徳太郎です。1890(明治23)年に生まれた徳太郎は年少の頃から永見夏汀の雅号で絵画や写真に親しみ、数々の作品を世に送り出しました。そうしたことから徳太郎は芥川龍之介や竹久夢二、菊池寛をはじめとする数多いくの文人墨客との交流が盛んでした。
彼らが長崎を訪れた際には、必ず永見家を訪ねたといいます。
長崎県美術館には徳太郎が描いた4点の油絵が収蔵されています。
※ 左から菊池寛、芥川龍之介、武藤長蔵、永見徳太郎
長崎の経済管を支えた永見傳三郎
徳太郎の大叔父である永見傳三郎は、国立第十八銀行(現在の十八銀行)の初代頭取であり、明治前半の長崎の経済界を支えた人物でした。永見家は十八銀行の前身である永見松田商社の創業者の一人でもありました。銅座町にある十八銀行本店の3階では、永見松田商社時代からの資料や大隈重信や伊藤博文等歴史的偉人との契約書など貴重な資料が展示されています。
銅座の二大守り神 ~パワースポット~
銅座にはなんとビルの屋上に稲荷神社があります。こちらは大変ご利益のある、知る人ぞ知る神社。明治の初め頃、銅座町付近で大火があったとき、お稲荷さんが現れ白い御幣を振ったため延焼を免れたという言い伝えが残っています。また日露戦争の時には、お稲荷さんが町内の老婆の元へ現れ、「出征した軍人さんを守るため、戦地に赴くから留守を頼む」とお告げになり、その結果、町内の23人の軍人さんは見事全員無事に帰還する事が出来たと言われています。銅座稲荷、お参りすればご利益がありそうですね。
銅座稲荷のすぐそばでは、もうひとつ守り神に出会う事が出来ます。それが「大師堂」。
江戸時代、この地で銅の精錬を行っていた罪人たちに信仰心を持たせるために
1783(天明3)年頃に建立されたのが始まりといわれています。
現在は銅座町自治会によって大切に守られています。
現在、銅座町では稲荷神社と大師堂を結ぶ道路を石畳にしようという計画があります。
二つの神様をつなぐ特別な道ができる日もそう遠くはないかもしれません。
幕末の志士、坂本龍馬も歩いた道
銅座町のほぼ中央に、かつて薩摩藩蔵屋敷がありました。個の場所を拠点としていたのが小松帯刀や五代友厚です。薩摩藩蔵屋敷には、伊藤博文ら長州藩士も出入りしていました。また薩摩藩士たちと深く交流をしていたのが、あの坂本龍馬。
幕末の志士たちは、銅座の町を目を輝かせて闊歩していたに違いありません。
小説にも描かれた戦後の銅座橋
長崎が生んだ女流作家・佐多稲子の小説「樹影」は一人の画家と華僑の女性の悲恋を描いた物語。戦後の長崎で必死に生き抜く男女の姿を描いたこの反戦小説は、実話に基づいて書かれています。主人公の女性が営む喫茶店が建つのは銅座橋際。
小説を読んで、銅座橋を渡れば、2人の姿が目に浮かぶようです。
銅座町自治会役員
役 職 名
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会 長
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副会長 (総括活性事業部兼任)
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副会長 (事業)
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副会長(総務会計副兼任)
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総 務
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会 計
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厚生部長
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広報部長
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広報副部長
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社寺部長
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社寺副部長
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消防青年部長
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消防青年副部長
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消防青年副部長
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衛生部長
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衛生副部長
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活性化事業部長
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活性化事業副部長
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理 事
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理 事
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監 査
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監 査、相談役
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特別顧問
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特別顧問
氏 名
新ヶ江 憲和
城尾 忠明
林 昭彦
谷口 義隆
津田 真里
坂本 裕樹
竹市 光一郎
児島 弘和
野田 伸治
王 文建
鳴瀬 知訓
富岡 丈裕
北原 昌大
河田 庄一
佐野 信次
野島 徹也
田口 知義
金子 謙三
甲田 茂雄
山口 知宏
永野 幸代
髙田 節雄
前田 哲也
岩永 敏博
事 業 所 名
銀鍋
五人百姓
㈲丸菱工業
野田工業㈱
鉄板や万菜
リモージュ・タケヤ㈱
㈲こじま
カサブランカ
私房菜きりん
鳴BAR
アンビエラ銅座
五人百姓
海鮮台所さかなや
佐野木炭店
ルノワール
田口歯科医院
アリラン亭
髙田不動産
長崎県議会議員
長崎市議会議員